◆丁度マリサット衛星打ち上げの一年前、1975年春には欧側の主導でインマルサットの設立を協議 する政府間会議がロンドンに招集された。欧側は米独自のマリサット計画に対しては、当然ながら その軍事色を理由に、またインマルサットの設立を阻害する恐れありとして批判的であった。この ように欧米対立のなかで設立協議は紛糾したが、国連の専門機関である政府間海事協議機関/IMCO (現在の国際海事機関/IMO)の肝いりで、1976年9月には基本文書(条約・運用協定)が採択された。 しかし、その後の具体的なシステム構築の話し合いでも引き続き両者の対立は深まり、 条約の発効・機構の設立も危ぶまれる事態が続いた。その背後には欧米間の衛星開発 競争・主導権争いも絡んでいたのである。
◆インマルサットの設立協議をリードした西欧諸国は、早くから欧州宇宙機関(ESA)において海事衛星マロッツ (MaritimeOTS)の開発を進めていた。しかし、米マリサットが76年に衛星打ち上げに成功。先を越されたESAは、 マロッツに代えて大型のECS(欧州通信衛星)バスで機能を強化し、またマリサットとの共通仕様も採り入れて、 マレックス(MARECS)計画に変更、インマルサット世界システムの中核を狙った。一方米側は、設計寿命5年のマ リサット後継機として第2世代マリサットを提案し、軍事相乗りにより経済的で大容量の宇宙部分の提供が可能 であるとした。この種の国際協議における欧米対立の構図は、かつて1960年代のインテルサット (国際電気通信衛星機構)設立交渉においても見られたところで、それは強大な米国に対抗する今日の欧州連合 (EU)の様相にもつながるものと云えよう。上記のESAは米NASA(連邦航空宇宙局)に対応する西欧グループの協力組織、 米の独走に歯止めを掛けたいとする悲願の結束でもあるが、なかなかヒットを飛ばせない悩みが続いている。
◆さてインマルサット設立の協議における欧米相克の狭間にあって、当然ながら日本など中間グループの動向が注目された。
日本は前編にも触れるように、マリサット・サービスの早期導入などの経験をバックとし、またインテルサットでの実績
を踏まえて技術協議など多くの場面で貢献するところがあった。政策面では当然ながら、政府の方針である国際組織
「インマルサット」の設立確保、システムの早期設定を基本とし、中立的立場において是々非々の対応に努めた。
手前味噌と云われそうだが、キーポイントで欧米の妥協もはかり、インマルサットの展開に一定の役割を果たして
きたものと考えられる。それら妥協点の主なものを挙げれば;
(1)軍事相乗りのマリサット第2世代について、日本は明確に反対した。他からも殆ど支持はなかった。
(2)マリサット第1世代衛星3機について日本は、インマルサット・システムの早期運用開始、バックアップ体制
の観点からインマルサットに組み入れるよう提唱した。これによりマリサット・システムのインマルサットへの引き
継ぎ(のれん譲渡)の話し合いが軌道に乗り、1982年2月マリサット3機が看板を塗り替え、インマルサット・
グローバル・システムとしてスタートしたのである。なお、マリサットは既に設計寿命を迎えていたが、依然健康状態を保ち、
さらに軍用部分(UHF)が順次、軍専用衛星「FLEETSAT」に移行しており、公衆サービス(L/C部分)に電力を回す余力もできていた。
不死鳥の面目躍如である。
(3)マリサットとマレックスの対立の中で浮上した妥協策がインテルサット衛星の共用方式。つまり、当時建造中の
インテルサットV号衛星に海事機能(MCS=MaritimeCommunicationSub-system)を搭載して貰い、このMCS部分を
インマルサットがリースする方式である。これにより、インマルサット・システムには、マリサット3機に加えて、
順次マレックス2機とMCS3機が投入されることになった。
(4)一方KDDは、マレックスの太平洋衛星打ち上げにも協力するため、そのコントロール業務(茨城TT&C局)をESAから
引き受けている。
◆ところで、ESAのマレックス計画は予定よりも遅れ、マレックスA衛星を大西洋に打ち上げたのが1982年5月のこと。 しかも、この衛星は佐藤さんの解説にもあるように、その後不運にもIM(混変調)問題で機能が低下し予備役に退いている。 さらに1983年9月にはマレックスBを太平洋に打ち上げたが失敗し、予備部品で組み立てたマレックスB2が打ち上がったのが 85年1月のこと。その間、衛星コントロール(TT&C)施設を準備してきたKDD茨城地球局も待ちぼうけの憂き目を見たわけだ。 不運なマレックスを目の前にして、不死鳥マリサットの活躍が一段と輝いているように見えた。