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〜 第6話 プロジェクトX談義 〜

遠藤栄造 (2005年3月)

◆ もはや旧聞になるが、昨年11月30日放送のNHKテレビ番組「プロジェクトX・挑戦者たち〜衝撃のケネディ暗殺・ 日米衛星中継〜」をご覧になった方も多いと思う。日米間初のテレビ衛星中継実験のその時、ケネディ大統領暗殺( 1963年11月23日)の衝撃的映像ニューズがKDD茨城宇宙通信実験所のモニターに飛び込んできた劇的なドキュメント。 この番組放送は我らOBに多くの話題と想い出を提供した。当時の関係者・専門家から見れば番組内容には物足りない 面があったとしても、限られた時間内に映像資料を駆使して衛星通信黎明期の情況を判りやすく纏めていたと思う。 東京オリンピック(1964年10月)を目睫に控えたKDD茨城実験所の建設・運用実験の模様、挑戦者達の活躍振り、 その懐かしい面々の映像から筆者も当時を偲んだ一人である。

茨城宇宙通信実験所
当時のレドームに覆われていた茨城宇宙通信実験所 のカセグレンアンテナ
口径:通信アンテナ 20m、追尾アンテナ 6m
◆ さてこのプロジェクトXは、無名の日本人・群像の知られざる挑戦・活躍を紹介する定番のドキュメンタリー 番組であることは周知のとおり。そこには時代背景とそれなりの環境が舞台になっている。この日米テレビ衛星実験 の背景としては、前編の第5話で触れたとおり、米ソ宇宙競争に端を発するケネディ米大統領の宇宙開発声明(1961年) ;つまり、人間を月に送るアポロ計画と世界を結ぶ衛星通信構想に向かって、米国が宇宙開発に全力投球し、 西側諸国がこれに協力していた時代である。

ところがこの番組では「日本は技術力が低いとアメリカの構想から外されていた」 と云うくだりがあり、我らOB仲間に疑問の声が上がった。そもそもケネディ声明の衛星通信構想は、世界中をカバー する衛星通信システムの構築であるから「日本を構想から外す」ことはあり得ないし、事実日本は、この構想を 具体化した世界商業通信衛星組織(インテルサット・1964年8月創設)の設立協議にも参加した設立メンバー (11か国)の一員である。したがって「構想から外された」と云うのは、おそらく初期の衛星実験段階の情況を ドラマチックに表現したものではないかと考えられた。それにしても、果たして「意図的に衛星実験から外される」 ような情況があったのか?疑問が残り、年明けまで仲間の議論が続いた。

◆ 岡目八目で当時の経過を調べてみた。確かに1960年のエコー衛星による信号反射実験やテルスター1号衛星 (1962年)などによる伝送実験は米欧間(大西洋側)が先行しており、当時日本は実験地球局の建設に取りかかった ばかりであるから、物理的に衛星実験に参加できる態勢にはなかった。衛星実験の調整の場であった米航空宇宙局 (NASA)主催の「国際地上局委員会」は1961年11月にパリで初会合を開き、英仏独伊ブラジルが参加した。日本は その数ヶ月後の第2回会合(62年2月ローマ開催)に参加(当時の電波監理局長出席)しているので、これを 「外された」と見るかどうかは微妙だ。何れにしても「日本は技術力が低いとして外された」とする点には誤認 あるように思うし、少なくとも「アメリカが意図的に日本を外す」ことはあり得ないと云うのが岡目八目の結論 であった。

目くじらを立てる程の問題ではないが、この結論を支持する若干の状況証拠? を参考までに挙げておこう;当時米ソ宇宙競争に始まる宇宙開発の急進展に対応するため、日本はいち早く米欧に 伍して宇宙開発・実用化の体制を整えていた。つまり1960年5月には総理府に「宇宙開発審議会」を設置 (後に総理大臣の諮問機関「宇宙開発委員会」に改組)し、我が国の宇宙政策の方向付けが行われ、また 関係省庁合同の推進連絡会議や官民関係機関の協議会等も立ち上げて具体的施策にも着手していた。

テルスター衛星
AT&Tのテルスター衛星
AT&Tアンドーバー地球局からの
指令による衛星ビーコンを
茨城実験所の小型アンテナで追尾成功

例えば、衛星通信実験について云えば、電波研究所の鹿島実験地球局(1960年) やKDD茨城宇宙通信実験所(1961年)の建設が具体化し、NASAなど関係機関とも早い段階から情報を交換、 我が国の衛星実験参加・オリンピック映像伝送の構想なども協議されている。
さらに日本の技術水準について云えば、 当時国際通信は、ほぼ全面的に短波技術に依存していたが、その中でKDDは、大口径パラボラアンテナ(三菱電機製) や高感度受信機(NEC製)などを駆使した対流圏スキャッター通信の実験(1956〜59年)等を実施しており、 日本の技術は世界と肩を並べ、部分的にはリードする情況にあったと云える。これら先進技術の開発が、 その後の我が国の衛星通信技術に急進展をもたらす原動力になっていたことも間違いない。

◆ 1963年11月の上記テレビ衛星中継実験には、NASAの中高度軌道衛星(周回衛星)「リレー1号」が使われたが、 その数ヶ月前、建設中の茨城実験所ではAT&Tの周回衛星テルスター2号により追尾アンテナの実証実験を行っており、 続くテレビ中継の実験成功に繋がっている。オリンピックの映像は静止衛星「シンコム3号」経由で世界に 中継されたが、当時は通信衛星方式(周回衛星か、静止衛星か)については未だ政策的・技術的に固まっておらず、 NASAは周回衛星から実験を始めたとされる。

リレー衛星
NASAのリレー衛星
東京オリンピックで静止衛星が使用され、続くインテルサット 1号・アーリーバード衛星(1965年打ち上げ)にも静止方式が採用されて、衛星通信界では一部の例外 (旧ソ連のモルニア通信衛星)はあるにしても、静止衛星方式が主流になった。以来これにアクセスする地球局には、 日本開発のカセグレン型パラボラ・アンテナが多く採用され、日本メーカー製の地球局が世界を席巻してきたことは 周知のとおりである。 なお、このプロジェクトXの番組では、当時の茨城宇宙通信実験所のアンテナや これに対向していたアメリカ西海岸のNASAモハービ地球局のアンテナの映像が出てこなかったので、これら想い出 のアンテナ写真と関係の衛星写真をここに再録しておこう。
実験中に送られてきた写真
実験中に送られてきた映像
米西海岸モハービ砂漠に設置された
ポーラーマウント型パラボラアンテナ

(佐藤敏雄氏・KEC高橋俊雄氏のご協力による)
以上「日本がアメリカの構想から外された」と云う、気にかかる プロジェクトX番組のナレーションを検証してみた。したがって今回は、表題の「不死鳥物語」からは 外れてしまったが、外れついでにもう一つの「日本(KDD)が外されていた」逸話について蛇足ながら触れておこう。

◆ それは衛星通信実用化直前の太平洋横断電話ケーブル (TPCー1) の導入にまつわるエピソード、 KDD発足草創期における通信網広帯域化のプロローグでもある。
1956年9月に大西洋横断電話ケーブル (TAT-1) が開通、それまで短波に依存していた大陸間電話サービスが画期的 に改善され、トラフィックも急増、当時のブロードバンド効果に世界中が沸いた。KDDはいち早く米側 (当時のAT&T) に太平洋横断電話ケーブルの建設について協議・協力方申し入れた。しかし先方の反応は鈍く、その間に アラスカケーブルやハワイケーブル (HW-1) が相次いで開通 (57年)、TAT-2 の建設も開始 (58年)、 英連邦世界一周ケーブル計画発表(58年)などが相次いだ。新型海底同軸ケーブルの技術力も資金力 (特に外貨不足時代) にも欠けていたKDDは、新型ケーブル網から外された情況に焦燥と不信感をかこっていた。

ところが情勢を一変したのが、58年4月ローマで開催のITUプラン会議でのこと、 当時のソ連代表からシベリア・マイクロルートの建設、これによる日欧間通信ルートの改善構想が打診された。 これを契機にKDDは更に米側へのアプローチを重ね、同年11月ジュネーブでのITU主管庁会議において、AT&T側と 太平洋ケーブル計画の検討開始について了解に達し事態は進捗;翌59年にはケーブル建設の基本合意が成立し、 諸準備を経て64年6月、第2ハワイケーブル(HW-2)に接続して日米間ケーブル(TPCー1)ルートが開通をみている。 実は米側を動かす梃子になったシベリア・マイクロルート構想をソ連側に働き掛けたのが元KDD某幹部、 その戦略的隠密行動は、知る人ぞ知るエピソードだが、放送番組には馴染まない「プロジェクトX」である。

なお、このシベリアルートの利用については、1960年にGNTC(大北電信会社) から提案された日本海同軸ケーブル(JASC)の建設に含めて具体化に向かった。GNTCは明治初期に電信ケーブルを 長崎に陸揚げして日本の海外通信を開いたデンマークの私企業。当時の長崎ーヴラジオストック電信ケーブルの 近代化として提案されたのがこのJASC・直江津ーナホトカ間海底同軸ケーブルである。これに接続したシベリア ・マイクロルートの品質には問題があったものの、日本の対欧トラフィックの改善に貢献した経緯は先刻ご承知 のとおりである。

外された悔しさが梃子になった、お粗末の一席。