四 季 雑 感    (27)        樫村慶一
   新春の舞台めぐり

  冬は寒いものと神代の昔から決まっている。なのに一入寒さを感じる今年の冬である。片や地球温暖化で毎年気温が上がっていると言い、片や太陽の活動が低下して氷河期の始まりだと言う。どっちが正解かは知らないが、段々と異常が異常でなくなって行くように思うのは大方の見解ではないだろうか。各地に気象警報が出る度に、日本列島の中でも比較的温暖な地域に、江戸の位置を定めた徳川家康の先見の明に感服する。その爛熟した時代に花を開いた伝統芸術が好きだ。そんなものを含めて昨年の秋に申し込んだ正月の舞台演劇が、なぜか松明けの成人式前の4日間に集中した。歌舞伎座の「新春大歌舞伎」を皮切りに、荒川サンポールの「落語2人会」、そして成城ホールの「ピーコと永禄輔のトークショー」と、たっぷりと楽しんだ。
  歌舞伎座は昨年4月に新装なって初めての新春大歌舞伎である。10年以上前から毎年正月公演は欠かさず見てきたので、さぞや今年はすべての装いが一新された、ピカピカな雰囲気だろうと想像していたが、あにはからんや、玄関の外側こそ変わったなと感じさせられたが、一歩入ったら、ロビーへの階段の数も同じなら廊下の幅も天井の高さも殆ど以前と違いを感じさせない。館内の飾りつけも、さらには舞台の上に飾るつり球などもない。わざと伝統的雰囲気を壊さないようにしたのかもしれない。それでも、さすがに座席間の幅は以前より広くなり、膝の長い私でも前席の背中に当たらない寸法になった。地下2階の地下鉄の改札前のスペースに広い売店街ができた。その地下鉄駅(都営浅草線東銀座)にも歌舞伎座正面に出る長い階段にエスカレータが付いた。長年の老人の不満が解決した。
  出し物は、「天満宮菜種御供(てんまんぐうなたねのごくう)」、「梶原平三誉石切(かじわらへいぞうほまれのいしきり)」、「松浦の太鼓(まつうらのたいこ)」、「鴛鴦襖恋睦(おしのふすまこいのむつごと)」の4本立てである。天満宮は菅原道真が大宰府へ流される話、石切は刀の試し切りに手水石を真っ二つに切る話、通常は敵役の多い梶原が情けと智を兼ね備えた武士に描かれている。一番面白いのは、吉右衛門が出た松浦の太鼓だ。忠臣蔵の一場面で、大高源吾が俳句の師匠宝井馬琴に別れを告げる場で有名な芝居だ。師匠が「年の瀬や水の流れと人の身は」と詠じると、源吾は「明日待たれるその宝船」と付句して去る。あだ仇討ちをしない赤穂浪士に、いらいらしていた吉良邸の隣の松浦鎮信公の屋敷に、翌日の夜中に山鹿流の陣太鼓が鳴り響く。すわ討ち入りと松浦公が歓喜する、という忠臣蔵外伝の中でも人気の高い出し物。鴛鴦は曽我物語の鴛鴦伝説を描いた舞踏劇である。

  サンパールの落語二人会は、三遊亭小遊三と春風亭昇太の笑天レギュラーの人気者である。昇太はご存知の「ときそば」、屋台のそば代は十六文なのに、十五文しか持ち合わせない男が1文ごまかすために、そば屋の親父にお世辞を言って、どんぶりや割り箸などをやたらに褒めそやし、銭を払う段になって途中で八文まで払ったときに時刻を聞き、そば屋に九つだと言わせて十文,十一文・・・と続け、一文をごまかすというお馴染みの話だ。この日の話は客が二人出てきて、その持ち合わせの合計が十五文しかない。途中そばやに時刻を聞いて一文ごまかすのは同じだが、二人のやりとりが実に面白い。翌日の夜、もう一人が俺も一文得してやろうと改めて出かけていくが、時刻が四つと早すぎて、逆に損をするというお話。小遊三の「弥次郎」は、お年寄りの旦那と若者の掛け合い問答みたいものである。古典だが原作とは大分かけ離れた内容になっているが、とにかくこのベテラン真打クラスの落語を、実際に面と向かって見て聞いていると、本当に腹の芯から笑いが湧き出してくる。声を出して笑い転げるとはこのことだろう。帰りの都電の中でも思い出し笑いがでるから厄介である。

  お楽しみシリーズの最後は、成城ホールの「ピーコと永禄輔のトークショー」だ。永禄輔は、昨年体調不良で一度ラジオ番組を降板したが、身に染み付いたラジオ人生が捨てきれず、また土曜日の番組に復活している。車椅子で話し振りもかなり老衰を感じさせるが、内容はさすがで、昭和天皇の側近No.1の入江侍従長と友人だったとかで、今だから話そう式の内緒話を披露してくれた。このショーはテレビもラジオも録音・放送しないので気楽に話したのだろうけど、成るほどと思った話が沢山ある。2,3披露する。
  《園遊会では天皇と列席者の会話は全部シナリオがあって、それに従って進行するんだそうだ。天皇は列席者の最前列の人と会話を交わすのだが、大勢相手なのでシナリオを忘れることがある。その場合は相手が誰でも、「やってますか?」とお声をかけるので、返事は「はい、やっております」で会話成立だそうだ。返事をぐずぐずしていると、侍従長が「お返事を」と催促すると言う。熊本県の由布院へ行幸したときの話。町長が周囲の山々の名前を一々ご説明した。その日は天候にめぐまれ遥か遠くの山々まで見えたので、天皇がその向こうの山々の名前を尋ねられた。町長は予習してこなかったので困り、「ただの山です」と答えその場をごまかした。時日を経て皇太子が行った。町長はしっかり予習して遠くの山々の名前を頭に叩き込んで望んだ。しかしその日は曇りで遠くは見えない。皇太子が「ただの山はどれか」と尋ねたが、町長は折角の知識を披露できず、本日はただの山は見えませんと答えたと言う。昭和天皇は湖沼に関心が高く水生動物にも造詣が深かった。由布院から移動する途中、水のある場所を通った。途中で車を止めさせ、降りて岸辺でじっとしゃがみこみ水中を眺めていた。突然車が止まったので後ろに続くマスコミの車からは記者連中が降りてきた。なにをしているのか、写真を撮うとしても水面の向側に回らなくては撮れない、ある記者が水に入ってと思って一歩中に入った。すると底がぬるぬるで深い、溺れそうになって助けを呼んだ。これを見た天皇は「何をしているんですか?」と静かに尋ねられた。》 
  また、新年のご挨拶を始め皇族方が国民に手を振るときは、必ず手の平を前後に振る。これは横に振ると手首が疲れて腱鞘炎になるのを防ぐためだと教えられているからだ、と侍従長が言った、とも永禄輔は話してくれた。

 今年の午は”甲”(きのえ)の午だ。甲は全ての始まりを意味するそうである。東京都の知事の選挙から全てをリセットして、安倍君の米国を失望させたような行動もリセットできればいいな、とも思う。そして私の干支であり、年男である。84歳から何を再スタートするべきなのか、答えは元気で年末を迎えられたときに出るのであろう。世間が名実ともに良い年になるように祈りたいと思う。 以上 (2014.1.20記)