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第5話 〜 インテル&インマル 〜

遠藤栄造 (04年10月)

この不死鳥物語は、世界初の商業海事衛星 「マリサット」 の誕生、その不死鳥のような長寿命の活躍、 そして本格的グローバル海事衛星 「インマルサット」 に繋がるエピソードなどを紹介してきたが、 たまたま本年は、インマルサット機構の発足25周年に当たると同時に、兄貴分のグローバル通信衛星 「インテルサット」 組織の創設40周年にも当たるので、今回は両者 (インテル&インマル) の発足当時の エピソード・関連事情などについて振り返って見たいと思う。

◆国際海事衛星機構・インマルが誕生したのは1979年7月のこと、兄貴分のインテル暫定制度の発足 (1964年8月) に遅れること15年目であった。インテルが地上ネットワークの拡充を目指す基本的グローバル衛星システムとして 先行したのは当然としても、同種の衛星システムでありながら、インマルの成立が何故10年以上も遅れたのか?  勿論、船舶等の移動体を対象とする海事衛星特有の事情 (技術面・需要面等) によることも確かではあるが、 最大の事情はその間における国際環境の変化 (進化?) 、更には財政・経済面での協議の難航などが挙げられよう。 これらの情況については、インテルのケースと対比すれば判り易いと思う。

サターンX
アポロ計画における
有人衛星の打上ロケット サターンX
ケネディ宇宙センター
(フロリダ・ケープカナベラル打上基地)
◆インテルの創設は、東西冷戦の真っ直中、かつ宇宙開発草創の時期であった、と云う当時の国際環境をまず 挙げなければならない。即ち、当時の劇的な出来事として、人類初の人工衛星・ソ連の 「スプートニック」 の成功 (1957年) 、これを契機とする米ソ間の宇宙開発競争の進展、特に1961年4月にソ連衛星 「ボストーク」 が宇宙飛行士を乗せて地球軌道を一周・無事帰還という展開を迎えて、ソ連の宇宙技術の先行性、人類の宇宙 進出の現実に直面して、米・西側諸国はショックを受けた。
その年の1月 「人類の平和共存」 を訴えた格調 高い就任演説とともに登場したばかりの米ケネディ大統領は、この有人衛星の成功に祝辞を贈るとともに、 「宇宙の平和利用」 の追求を宣言、国連を舞台として宇宙天体の非軍事化政策を推進した。同年12月には国連総会で 「宇宙平和利用のための国際協力」 の決議が採択され、宇宙平和利用委員会の常設、米ソ間の宇宙協力の具体化など、 国連での議論・手続きが進展した。
人類の宇宙憲章と云われる 「宇宙条約*1」 をはじめとする 一連の関連条約・協定 (例えば:宇宙物体登録条約、宇宙損害賠償条約、等々) の成立は、当時の宇宙に向けた 世界的関心を象徴する成果と云えよう。この宇宙平和利用を軸とする米国の宇宙開発は 「月着陸を目指した 有人宇宙飛行*2」 と 「グローバル衛星通信システム」 の2大プロジェクトに集中していた。
(*1) 正式名称: 「月その他の天体を含む宇宙空間の探査及び利用 における国家活動を律する原則に関する条約」 1967年10月発効。
(*2) マーキュリー計画、ジェミニ計画による有人衛星の飛行実験を 経て、アポロ計画で1969年7月宇宙飛行士の月面着陸・探査・地球帰還に成功した。

◆前置を並べたが、当時の劇的な国際環境・米国の意気込みなどを抜きにして、インテルの成立を語ることは できないからである。 米国は矢継ぎ早に、1962年には 「通信衛星法」 を制定、これにより国策会社 「コムサット」 を設立、 「世界商業通信衛星組織」 の創設を各国に呼び掛けた。米国の強力なリーダーシップの下で、 グローバル衛星通信構想は1年足らずの国際協議 (日・米・西欧等18か国が参加/ソ連圏は不参加) により、 暫定的制度*3ではあったが、衛星通信の早期導入を目指してインテルを創設 (1964年) 。 いわば米国の技術・経済力におんぶされて発足した西側の衛星システムであった。

当時参加国の多くが衛星 システムへの出資 (リスク負担) を懸念する中で、米 (コムサット) は当初出資率の大半 (61%) を引き受け、 また連邦航空宇宙局 (NASA) など関係政府機関の協力を得て、システム管理運営の全般を取り仕切る 「アメリカ型グローバル衛星システム」 を展開。発足の翌65年には早くも1号衛星 「アーリーバード」 を大西洋上に打ち上げ、その実力を示した。 インテル衛星システムの実現が途上国の通信事情の改善に果たす 役割は、政治的意義も含めて大きく評価された。またテレビ映像伝送の画期的改善、国際中継の発展に貢献 したことも周知のとおり。

映像中継で想起されるのが、宇宙政策をリードしたケネディ大統領の不慮の惨事; 大統領はインテルの成立を目前にした63年11月凶弾に倒れ、奇しくもその生々しい事件映像が衛星中継 ( 実験中のリレー衛星・茨城地球局*4 経由) で報道されたことは我々の脳裏に刻まれる出来事。 また一方、有人宇宙飛行計画ではケネディ宣言どおり、69年には米宇宙飛行士による月面着陸・探査、地球帰還 を果たし、その実況映像がインテル衛星を含むNASCOM中継により全世界に報道され、米宇宙技術の進展振りを 誇示したことも記憶に新しい。

(*3) 暫定制度は 「Agreement establishing Interim Arrangements for a Global Commercial Communications Satellite System」 と称する協定に基づくが、組織の名称は発足後の委員会で 「International Telecommunications Satellite Consortium」、略称を 「INTELSAT」 と定め、インテルの看板を 「コンソーシャム (国際投資企業団) 」 体制として掲げた。
(*4) 64年10月の東京オリンピックにおける映像報道に備えて地球局の 建設・実験中であった。
20m通信用アンテナ
建設中の直径20m通信用アンテナ
宇宙通信実験所
宇宙通信実験所の追尾用小型アンテナ (上方) と
大型通信用アンテナ (下方)
どちらもレドームに覆われている

◆さて、本題の海事衛星に目を転じると、インテルの成功的展開を目のあたりにした海運界は、船舶の 安全航行・運航業務の改善のために衛星技術を採り入れることに着目、1966年には国連の専門機関である 「政府間海事協議機関 (IMCO) ・現在の国際海事機関 (IMO) 」 において海事衛星に関する研究が開始された。 71年にはIMCO海上安全委員会が 「海事衛星のための国際組織の必要性」 について決議、その具体策が専門家 パネル (POE) により検討 (1972ー74年) 、いわゆるPOE報告が作成された。75年には英政府が招請国となって ロンドンにインマル設立の政府間会議が招集され、POE報告をベースに協議が進められた。

◆既にお判りのように、インテル暫定制度が、米国の提唱・構想をベースに西側の結束の下で設立協議が 進展したのに対し、インマルの場合は、国際機関がリードする形で政府間協議がスタート。協議には IMCO/IMOのメンバーでもある旧ソ連圏諸国を含め40余か国が参加し、多彩な顔ぶれとなった。また一方、 西側宇宙後発国 (西欧・加・日など) にも次第に宇宙技術開発の機運が高まりを見せており、米の独走的な傾向、 特に技術・ノーハウの米への集中・依存について懸念が広まっていた。このような時代の進化・国際環境の変化は、 インテルのケースとは異なり、米国にとっては逆風になっていた訳だ。当然、インマル協議では、多様な 意見・政策が絡み合い喧々囂々、紆余曲折を見て合意形成には時間がかかった。つまり、IMCOでの研究は POE報告作成までに8年かかり、その後の設立交渉では、条約発効・機構設立までに5年を要したことになる。 因みに、宇宙後発国の影響については、インマル設立会議に先行して行われたインテルの恒久制度化交渉 (1969-72年) において既に表面化し、インテルの非米化の方向が進展、交渉難航の末インテルは コンソーシャム体制から国際機関体制の 「国際電気通信衛星機構」 に大変身したのである。

◆インテル&インマルの設立交渉は、まさに 「その時歴史が動いた」 の舞台、衛星通信時代幕開けの節目 であったと云えよう。このような時代の節目には、それなりの環境と強力なエネルギーが作用している訳だが、 そのエネルギーの主役は、インテルの場合はアメリカが演じていたし、インマルの場合には英国を中心とする 西欧海運国グループが共演していたと見える。インマル協議で逆風にあったアメリカだが、その後、独自計画 「マリサット」 の成功、つまり不死鳥の微笑みを背景として、再びインマルで主役の座に就くことになる。 まさに実力派の演技である。上述のとおり、インマル設立協議は、参加国の多様化、それぞれの国益・ 産業政策等を背景に紆余曲折を見る訳だが、特に財政・経済面に関わる問題; 「当初出資率」 の合意形成、 関連する条約発効要件の達成、初期衛星システムの構成・調達など、難問解決に米国の演技が光ったと云えよう。 次回はこれらのエピソードについて触れて見たいと思う。